嫌な自分も受け入れる

group of multiracial friends walking along park 自分のこと
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どうも、うさぎです。

昔、とてつもなく嫌いな部下がいた。
その人は就業中は常に眠そうにしていて、仕事をお願いしてもろくな成果物は出さず、やり方を1から10まで指導してもメモすら取らず、言い訳ばかりして、1日の数時間をトイレで過ごすような部下だった。後から知ったがトイレに籠もってスマホでゲームをしていたらしい。
臨時の職員だったので、なぜこんな人を採用したのかと採用担当の上司にも怒りの矛先を向けたくなるような、実際上司に何度もその部下を解雇してくれとお願いに上がったが、ついぞ叶わなかった。
他の職員からも不満の声が現場長の私に寄せられた。その度に指導しないといけなかった。それも苦痛だった。

何にそんなに毎日イライラしていたのか今となっては分からない。
使えないなら仕事を与えないで、放っておくこともできたはずだ。
なのに私は毎日のようにその部下を叱責していたように思い出す。

嫌いな人がいることは悪いことでは無いけれど、ひどく疲れる。
嫌いな人の一面だけを見て、それが全てだと思い込み嫌な奴とレッテルを貼ってしまう。
自分の中にも嫌な一面と好きな一面があるのに、他人に対しては嫌な一面だけを見てしまう。
逆も然り、好きな人は好きな一面だけを見て、それを全てだと思いこんで、悪い一面が見えた時に裏切られたような錯覚を起こして、落胆することもある。
全て自分の思い込みに過ぎないのに。

それは自分にも返ってくる。
だから自分の中の好きな部分は外に出してみんなに知ってもらおうと振りまく。
自分の嫌な部分は認めることができず、そんなのは自分じゃないと隠そうとする。

心理学者のユングは自分では認めたくない一面を『影(シャドー)』と名付け、影は誰にでもあると主張した。
ユング曰く、影は消すことが出来ないから健全な心を保つには影とうまく付き合う必要があるらしい。

自分の影を隠し続けて、認めないでいると、自我が混乱してしまう。
ありのままの自分を受け入れて、影も愛する必要がありそうだ。

嫌な人が隣にいたとしたら、それはその人の影を観ているだかもしれない。
それを自覚しているだけで、他人にも自分にも優しく慣れるような気がする。

完璧な人なんてこの世にいないんだ。

といったところで、今回はここまで。
ありがとうございました。


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